/ 2017.09.25

2児のパパ目線、そして新聞記者の目線で子育てや世の中の気になることを読み解く「新聞記者パパのニュースな子育て」。今回のテーマは2020年度から変わる英語教育について。3日目は、早稲田大学名誉教授の東後勝明さんにお話しを伺いました。

執筆

高橋天地さん

平成7年、慶應義塾大文学部独文学専攻を卒業後、産経新聞社へ入社。水戸支局、整理部、多摩支局、運動部などを経て、SANKEI EXPRESSで9年間映画取材に従事。現在は文化部で生活班を担当。育児、ファッション、介護、医療、食事、マネーの取材に精力を注ぐ。

「自分は何者か」を忘れずに~早稲田大学名誉教授、東後勝明さんの見解

英語教育学や 英語音声学を専門とし、NHKラジオ英語会話の講師を13年間務めた早稲田大学名誉教授、東後勝明さん(78)も、前出の古富さん鈴木さんとほぼ同様の理由で、小学校3年生からの授業スタートに賛成の立場だ。

NHKラジオ講座「英語会話」元講師で早稲田大学名誉教授の、東後勝明さん

「子どもが幼い頃から英語を学ぶことは全く反対ではないし、少しでも早く接触させてあげればいい。その際は、子どもが楽しく英語体験を続けられる環境が担保されなければなりません」。

「自分は何者か」「自分はどこの国の人間か」

また、指導者や保護者に対しては「どこか心の片隅にでも留めておいてほしい」と警鐘を鳴らすことも忘れなかった。「自分は何者か」「自分はどこの国の人間か」-という思春期や青年期におけるアイデンティティーの揺らぎの問題だ。

幼いうちから子どもに英語のシャワーを浴びさせ、英検1級など各種英語試験の得点を上げる技術の獲得も意欲的に行わせ、結果、ネイティブ同様の英語能力を子に身に付けさせることに成功したという体験談に触れることがある。

教育熱心な親達たちの間では羨望の的になりそうな話ではあるが、思春期や青年期に差し掛かった子どもにとって、場合によってはそれは辛いことこの上ない話にもなり得る、というのだ。

自分が生きるうえでの根本的な立ち位置が分からなくなると、自信を持って社会生活を送れなくなってしまう。

言葉と文化的価値観を完全に共有する米国や英国などに逃げ込んだところで、もちろん現地人として扱ってもらえないし、日本では『国際人』『バイリンガル』ともてはやされても、西洋かぶれしたちょっと変わった人物として距離を置かれるケースも多々ある。多感な時期には我慢できない話でしょう

やり方を間違うと、そんなリスクを伴うことも踏まえ、東後さんは「英語教育はゆっくりと楽しい路線に乗せた方がいい。大きくなってからでは子ども時代のやり直しがきかないですからね」と指摘した。

帰国子女の長男が陥った、アイデンティティーの危機

実は、東後さんの長男もアイデンティティー危機に陥った。長男は、東後さんのロンドン大留学に伴い、幼稚園時代から小学校4年まで6年近く英国で過ごした帰国子女だ。

帰国後はインターナショナルスクールに通い、中学2年から日本の中学へ編入。日本の高校と大学を卒業後、英国留学で修士の学位をとった。家庭を持ち、50歳を超えた今では、大学で英語などを教えている。

「子どもが生まれたら英語を教えたいという気持ちが僕はものすごく強かった。 長男が小さいときから、寝る前には『It’s about time you went to bed.(もう寝る時間だよ)』などと、ずっと英語で話しかけてきました。

米国の友達から現地のテレビ番組のビデオを取り寄せ、見せたりもしました。英語のシャワーですね。帰国後、インターナショナルスクールに入った頃には完全にネイティブと同じレベルで話せるようになりました。私より上手くなってしまいました」と東後さん。

このままでは日本人ではなくなってしまう

だが、中学2年からは日本の学校へ転入させた。「このままでは長男は日本人ではなくなってしまう」と危機感を抱いたのだ。

その結果、長男は、英語を話す機会や、学校生活での自由度の激減、急に着用することになった制服など、一気に押し寄せた文化ギャップに人知れず苦しむことになり、大好きな洋楽の世界だけが長男が精神のバランスを保つために逃げ込める唯一の場所となっていた。

アイデンティティー危機を克服後、社会人となってからようやく長男は7つ年下の妹(東後さんの長女)にこんなことを漏らしたという。

「お父さんはよかれと思って俺をこんな風(英語話者、帰国子女)に育ててくれたけれど、アイデンティティーのことで結構しんどかったわ。今は俺は俺だって乗り越えたから平気だけどね」。

長女を介して聞いた東後さんは「長男には謝ってばかりです」と語った。

根っこの部分に「好き」という前向きな気持ちがどれだけあるか

「最初の接触が肝心」「自発的に」「楽しみながら」「生活の一部に自然に溶け込ませるように」-。各分野で卓越した手腕を振るう3人は、それぞれ違う経験からたどり着いた答えとして、まるで示し合わせたように同じことの大切さを穏やかに説いた。

血の滲むような努力も重ねてきたであろう3人だからこそ、頭ひとつ抜きん出るためのもうひと踏ん張りの局面では、根っこの部分に「好き」という前向きな気持ちがどれだけあるかが大きく作用し、それだけは後から努力で補えることではないことも知り尽くしているのだろう。


クラスの帰り支度をしているとき、大人の真似をして、自分の頭を「いい子、いい子」と片手でなでながら「こ、こ、こ」と発声していた次女(1)に長女がなにやら話しかけている。

「どうしたの?寒いのかな?パパー、『cold、cold』って言ってるよ」。 単なる聞き間違いと言えばそれまでの話だし、親バカなだけかもしれないが、もしかしていま、なかなかよいものを見たのかもしれないと、ふと温かい気持ちになった。

自分がどんな人物で、どんなことを考えているのか伝えたい、あなたの心に何が浮かんでいるのかを理解し、寄り添いたい。これらが人が言葉を話す原始的な目的であることは、おそらくは我々の想像をはるかに超える人工知能の台頭が予想される近い未来にあっても変わりはないだろう。

自力でも、技術の力を借りながらでも、英語でも、日本語でも、他の様々な国の言語でも。楽しみながら素敵な言葉を豊かに身につけ、海の外へ、これから出会う大好きな人たちとの交わりの中へと、元気に踏み出していってくれたら-。

小さな背中を押してあげられるのは、今、ほんの少しだけ。なんとか上手に助走をつけてあげたいものだな、と改めて思った。