2011年3月11日の東日本大震災は、甚大な地震の被害と同時に福島第一原子力発電所事故という大きな傷跡を残しました。娘3人と一緒に仙台駅に向かっていた小野智子さんは、震災を通して「もう、ジタバタしない」という生き方を決めたそう。その訳は?

卒園式を控えた長女の髪を切りに、義姉と待ち合わせ。仙台駅へ向かうバスの中で

卒園式を数日後に控えた長女の髪を切りに美容院に行く途中のバスの中で最初の大きな揺れを感じました。6歳の長女、3歳の次女と手をつなぎ、生後半年の三女をおんぶした状態で乗ったバスで、ジェットコースターのような揺れを感じました。

道路のタイルはズレていき、建物の壁がポロポロと落ちていくんです。アンテナが揺れていて、え、これ映画?私、夢見てる?と。仕事で県南の山の中にいたパパとの電話がつながって、私も娘3人と一緒だからと伝えてお互いの無事を確認してひと安心。

信号が動かなくなり、バスが立ち往生。仕方なく仙台駅のひとつ前のバス停で降りると、娘たちが「おしっこ!」と。次女はその辺りでできても、長女はもう6歳で個室でないとおしっこをガマンしちゃいそうだったので、近くのビルの1階にあるトイレへ駆け込みました。

2回目の大きな揺れの後で、もう水は流れなくなっていて、私たちが使い終わりビルの外に出たときには、扉は閉鎖され立入り禁止に。

「こういうときは、動かない方がいい。」そう思い、バス停の近くの広場で娘3人といたところに、仙台駅で待ち合わせをしていた義理の姉が探しに来てくれて運良く合流。すでに仙台駅は水浸しになっていたということを姉から聞きました。

震災後、初めて行った仙台の七夕

マンションは半壊、長女と次女を預けて、三女をおんぶして自宅へ

雪が降り始めていました。家に帰るにも娘3人を連れて歩くのは危険だったので、人生初のヒッチハイク。知らない人の車に乗せてもらい、いつもなら5~10分で到着する場所に30分もかかりました。でも、この間に暖が取れただけでも、本当にありがたかった…。

その車の中にあったテレビで、初めて津波が来ていることを知り、沿岸部の様子が映し出されて大きな衝撃を受けました。これは、大変なことになっている、と…。

自宅から歩いてすぐの場所に、母の実家があったので義理の姉に長女と次女を預けて、自宅マンションに戻りました。マンションは半壊、9階に住んでいたので、あのとき娘たちと自宅にいたらどうなっていただろうと、想像しただけでも怖くなります。

そのときに入った壁のクラック。今もそのままに

家の中は、食器棚は半分に折れ、あんなに重い冷蔵庫が動いていて、洗濯機のホースは外れていました。さらに、出かける前に晩ごはん用に作っておいたカレーが鍋ごと床に落ちて、中身が全部出ている状態。ピアノは倒れ、閉めたはずの窓は全開となっていて、そこから雪が舞い込んでいました。

冷蔵庫から食料を、そして日用品やおむつを持ち、ドア脇の物置に入れてあったキャンプ用品の中からカセットコンロとボンベ、IHヒーターなどを持ち出して娘たちのところに戻りました。

発生から数日後、自宅に戻ったときの悲劇

その後、この部屋で起こったことは思い出すだけでも、もう二度と体験したくありません。洗濯機の蛇口が開栓したままになっていたため、マンションの水道が開通したときに部屋中水浸しになり、知り合いから「玄関から水がジャージャー出ているよ」と言われ、あわてて部屋に戻り水を止めました。また、キッチンの床に散ったカレーは、固まってこびりつき、油ギトギトで拭き取りが大変。とにかく後片付けは悲惨なものでした。

避難するとき、余裕があれば洗濯機の水道栓は止める。震災後に修理した洗濯機

避難生活は母の実家で、いとこたちと一緒に

母の実家は平屋で、いとこたちも集合して数日間はみんなで過ごしました。夕方は真っ暗なのでキャンプ用のライトで過ごし、カセットコンロを使って湯を沸かしてスープやカップラーメンを作りました。

震災後から始めた手作り味噌の仕込みの様子。母に教わりながら、近所の友人と一緒に作るのが恒例行事。緊急時の保存食、万能調味料として

子どもたちは少しの揺れでも怖がるんです。だから、なるべく普通に接して、いつも一緒にいられるようにしました。当時は、原発事故による放射性物質の情報も出回っていて、何を信じていいのかわからず、「とにかく子どもを外に出すな」と言われたり、食料も何が安全なものなのか混乱しました。子どもたちにとって、外遊びができないことほど辛いことはありません。

母の実家で1カ月ほど避難している間に、自宅マンションの片付けなどをして、ガスが通り、お湯が沸かせるようになってから家に戻りました。それくらい東北は寒いですから。

生後半年だった娘もこんなに元気に大きくなりました。避難先の母の実家にて

男性は水汲みや食材の調達など動いてくれましたが、そのうち勤めている会社の業務再開に向けて準備が始まるとなかなか思うように動けません。私たちも、物資が足りないので、張り紙を見たり、知り合いが教えてくれた情報で出かけていくようになりました。いつもは行かない店に買い物に行くと、思いがけない高額を提示されたり、一方でなじみのヤクルトさんがわざわざ避難先まで飲み物を届けてくれたり、さまざまな人間模様がありました。

物資は「ないない」が先行するが、実は「ないようで、ある」

避難所に行けば、おにぎりなどの配給もあったようですが、わが家は利用しませんでした。こういう状況の中、物資の情報は「ないない」が先行しがちなのですが、大事なことはジタバタしないこと。落ち着いて情報を求めれば、実は、ないようで、あるんです。とにかくジタバタしない!目先の情報に流されず、今あるもので工夫をすることも大事だということを実感しました。

ママ同士の情報交換で、オムツと生理用品ナプキンを交換

生後半年の三女のおむつを集めるのが大変でした。一方で母乳を与えていたので、私の生理用品は不要。ママ同士の情報で「うちに使わないオムツあるよ!」「私、生理用品使わないからどうぞ」と交換ができるわけです。

給水車が来ても、水をいれるタンクがないと受け取れない

災害時、水はとても貴重なもの。給水車が来たら、その水を入れるタンクがないと受け取れません。サーフィンをする人が持っているようなシャワー付きのタンクがあれば便利だったかも。水も貯められるし、手を洗うこともできるので。

あってよかったのは、食品包装用ラップフィルム

水が本当に貴重なので、洗い物を出さないように紙皿を食品包装用ラップフィルムで包んで使い、その部分だけ捨てて、皿は使い回していました。

クルマのガソリンは満タンにしておく 

震災後、クルマのガソリンは気づいたときに満タンにしておくようになりました。いざというときに燃料にもなりますし、もちろん移動もできるから。クルマで使える携帯電話の充電器も買いました。エンジンをかけて充電さえできれば、情報も得られるし、連絡も取れますから。

石油ストーブは湯も沸かせるので便利

雪が降るようなちょうど寒い季節。石油ストーブがあれば、暖もとれて、湯も沸かせます。

新聞紙

燃料として燃やせば暖もとれます。また、水が貴重なとき、トイレの大を流すのにかなりの水を使います。新聞紙があれば、敷いてそこで用を足し、くるんで捨てることもできます。

ママたちへのメッセージ

原発事故の影響で、今も産地にこだわって「食べる人」も「食べない人」も、それぞれいます。私は、産後2~3年は気にしていましたが、今はそれほど。それも自分で決めることです。津波で被害を受けた宮城県名取市の「ゆりあげ朝市」が再開したときには出かけていきました。復興のお手伝いのひとつとして、産地のものを買うことができるから。

集めていた和食器もすべて割れてしまいました。震災後に買った夫婦の茶碗と娘たちの箸置き

周りには、自分たちよりももっと大きく被災している人が大勢います。震災から6年が経ち、娘3人は中学1年、小学校4年、1年になりました。多くの命が失われ、大きな被害がそれぞれにあった経験を通して、なによりも命さえあれば、どうにでも道はあると信じています。あの日を機に、後悔しない自分らしい生き方をしようと決め、今を過ごしています。

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