驚くほどに純粋な「無償の愛」

「無償の愛」…私はかつて、それは親から子へと注がれるものだと思っていました。しかし子どもが生まれて気づいたことがあります。むしろ逆ではないかと。

私は子どもたちを愛しています。少なくともそう認識しています。そこに見返りを求めるような気持ちはありませんが、私の場合、義務や責任の意識はあります。

私の希望でこの世に来てもらった以上、子どもたちにステキな時間を提供してあげたいという気持ちがあるのです。それは決してネガティブなものではありませんが、愛の純粋性を妨げるものではあるかもしれません。つまり、何の条件もなく無から湧きでる気持ちではない側面が含まれているように思うのです。

一方、子どもたちが私に注いでれる愛は、驚くほどに純粋だと感じます。ととは私を祝うことについて、祝ったら私が喜んで何かいいものをくれるかもしれないとか、子どもには親を祝う義務があるとか、そんなことを考えている様子は全くないのです。

ただただ祝ってくれている。まさに「無償の愛」と呼べるようなものが、そこにはあると感じます。私は愛を子に注ごうとする一方で、むしろより純粋な愛を子から受け取っているわけです。

これはとても嬉しいことです。でも突き詰めて考えてみると、同時に恐ろしいことだと感じる時もあります。というのも、私は試されているように思うからです。

私は子から愛を受け取る時、いつだって「ありがとう」と言いたいと思っています。でも時々、「ごめんね」という言葉が脳裏をよぎることがあるのです。得てしてそれは、子に対して十分なパフォーマンスや環境を提供できていないと、私自身が自分を評価している時です。

こんな私で…という気持ちがこみ上げてくる。「無償の愛」がかえって傷に沁みてしまう。それを受け取るにふさわしくないと感じるからです。でも本当は、そう感じる自分ではいたくないのです。受け取る資格を持っていられるかどうか、私はいつも淵に立っています。

この日、帰宅すると…

ととはいそいそとホワイトボードとペンを持って机につきました。ひらがな表を見ながら、覚えたての文字を時間をかけて丁寧に書いてくれました。

書き終えると、ととは私のもとにかけより、身をかがめていた私の頭を両手でぎゅっと抱きしめ、耳元で「大好きだよ」とささやきました。私はととの頭をなでながら言いました。「ありがとう」と。

この記事を書いたライター

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パパ頭さん
絵日記・漫画家

高校で倫理を教えつつ、妻子との暮らしを描いた漫画を執筆、SNSで公開中。おっとり優しい長男と元気で愛嬌のある次男とに囲まれ、賑やかな毎日を送っている。著書は『パパが育休とってみたら妻子への愛が深まった話』(KADOKAWA刊)

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