/ 2019.07.02

「近所の国立大付属小、トライしてみなくて、ホントにいいんだっけ?」

色とりどりのランドセルの広告を見ながら、制服着用、男女黒のランドセルの学校のことをふと思ったときから、葛藤は始まりました。

年中の夏くらいから、説明会に足を運び、メリットもデメリットもふまえ、その後の進路や通わせやすさなど考えて、いま通っている保育園との連携した活動もさかんな学区の公立に進むのがうちには合ってる、と、むしろ先取りしたタイミングで、一度は決めてスッキリできたはずでした。

でも、情報感度が高く、なにごとにも冴えた選択をする、尊敬する年下ママが、すごく自然な感じで「自宅学習で出来る範囲でやっぱりトライしてみようかと思って」というのを聞いたとき、どういえばいいのか、母として、そこに山があるのに登らずスルーしていいものなのか、それで子のためにベストを尽くしたことに本当になるのか、と、うっすら残っていた残り火のような思いに火がつき、一気に自信がぐらついてしまったのです。

一度そう思うと、もはや受験するとするならかなり遅れたスタートになってしまうという出遅れ感も手伝い、折り紙、なわとび、鉄棒、プリントを解く速さ、受験するなら、という目線で、長女が苦手なこと、できていないことばかりがやたらと目につくようになりました。

別に受験対策でなくても、子供の能力を伸ばすのに大事と言われる0歳から6歳の間、身につけようと思えばできたこともあったのではないか…。自分は一体なにをしてきたのか。どんどん自分で自分を追い込み、苦しさは増していきました。

全ては自分の心の持ち方ひとつとわかっているのにどうしても抜け出せず、その日も、つらくあたってしまい、後悔で両腕枕の二人が寝息を寝ても寝付けずいました。

キリキリ痛む胃をさすりながらそっと両腕を頭の下から抜き、暗闇の中で見ていたスマートフォンの画面で、ある新聞社のコラムが目に留まりました。

「お父さんが/お前にあげたいものは/健康と/自分を愛する心だ。/ひとが/ひとでなくなるのは/自分を愛することをやめるときだ」

それは、吉野弘という詩人が、誕生した我が子に贈った一編の詩で、コラムは、家庭内暴力を繰り返す長男が近所の小学校の運動会の音に腹を立てて危害を加えるのを恐れ、76歳の元高官が我が子に手をかけてしまったという、掲載当時報じられていた悲しい事件に触れていました。

「長男も自分を愛する心を見失って家庭内暴力の迷路に陥ったのか」と、そのコラムにはありましたが、そのときの自分には、我が子からの暴力に耐え、行く末を案じ、自分を強く責め続けていたであろう76歳の父親も、もしかすると、もうずっと前に自分を愛することを忘れ、ひとでないものに変わりはてた心の闇を抱えて苦しんでいたのではないかと思え、人ごととは思えず、いたたまれない気持ちになりました。

つまづいても、回り道しても、できないことがあっても、そのままのあなたでいい、そのままのままのあなたがいい。

心を開いて無条件にだれかを受け入れるためには、まずは自分が自分を許し、オッケーを出している健やかさが必要なのではないか。

うまくこどもに愛情を注ぐためにも、一回落ち着いて、まずは自分のことを少しだけ許して、受け入れてみよう、と思い至ると、ゆっくりと呪いが解け、こわばっていた身体が解放されていくような気持ちになりました。

そんな気持ちで迎えた翌朝、写真アプリが3年前の今日の写真をリコメンドする通知が届きました。

開くとそこには、当時3歳、ちょうどいまの次女の年齢の頃の長女がいました。

やっと病院から帰ってきた母親と生まれたばかりの妹の周りで、お姉さんとして一生懸命妹をお世話し、一方で、遠慮がちに母を求める表情がありました。

それをみたとき、残り9ヶ月の年長さんライフ、一番してあげたいことが決まりました。

こんなに小さかったのに、急いでお姉さんになってくれた、母が「二人のお母さん」になるのを、いまも無心に待ち続けてくれている長女を、今度はこちらが、なにも条件をつけず「待つこと」。

遠回りに思えても、そのことが、「かちとるにむづかしく/はぐくむにむづかしい/自分を愛する心」をこどもたちの心にも、そして自分の心にも、芽生えさせる小さな一歩なのかも、と思っています。

4月、ランドセルが何色でも心には満開の桜をいっぱいに抱え ワクワクしながら新しい扉を開けようね!

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たかままさん

「保育園児ママの今こそ育児の青春時代!」がモットーの更年期ちらつく歳女(としおんな)。不条理だらけのワンオペ育児、ビジネス文書でみかける用語で考察してみたいと思います。

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